昭和43年7月14日 朝の御理解
43節「死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願いせよ」「死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願いせよ」
私共が、こうして拝ませて頂いておるというか、信心させて頂いておる神様。そういう性質な神様であるということ。
この世でおかげを受けただけで、それで良いというのじゃない。死んだからというて、神にお世話にならんわけにはいけんという神様。
そういうような神様を私共は拝んでおるわけですね。そういう神様とのご縁を頂いておるわけです。確かに死んだからというて、神様のおかげを頂かんわけにはいかん、お世話にならんわけにはいかん。ほれでそこんところを現世、この世でおかげを頂く。
商売繁盛やら、健康のおかげ。まぁ様々、人間諸事万端の、難儀なことを助けて頂くのが金光様。死んだから、死んだら仏様、お釈迦様とか。というような、その考え方ではいけないというのではなくて、そこが分からなければいけないというのである。
勿論これはお釈迦様だって、キリスト様だって、やはりあの天地の御恩徳によられなければ出来んことですね。そこで私はあの、お互いの願いというのがですね、そういうこと、又はそういう、こういう一つのみ教えというものをですね、いわばふんまえての信心。そういうことが分かってからの信心。
そこからです、自ずと私共のあり方も、又は願っておる焦点も、間違いのない焦点に向って信心を進めていく事が出来。願いも狂いのない焦点を焦点として願っていく事が出来ると思う。
人間の知恵、力でどうにもならない事。そこんとろこを確かに助けて頂けれるという、いわゆる信心してみかげのあるを、不思議とはいわんで済むように。同然の事としておかげが頂けれる神様であるという体験に基づいて、まぁ様々な願いを立てます。願わずにはまたおられませんし、願います。
が、そういう例えば願いもです、まぁいうならはしたない願いでも神様は聞き届けておかげを下さるわけで。ね、それは勿論、生きても死んでも天と地は我が住みかと、いわゆる死んだ先でもこの神のお世話にならんわけにはいかんぞという、そういうようなことを分からせたい。
いわゆる神様のお力というか、神の権威にかけて、いわばご利益というものはあるもんだと。力も何もない神様に、あの世までも頼むというようなことは出来ん。そういうことになったんでは、ね、親も不幸なら、子供も不幸せ。神様も難儀なら、氏子も難儀。
昔の人の言ったこと。まぁお芝居のなんかの台詞によく使われる言葉の中にね、「親子は一世、夫婦は二世、主従三世の世の例え」といったようなことを申しますですね。これはね、親と子というものはそんなに縁が薄いという意味じゃない。これはもう切れと言ったって切れないんだということだと。親子は一世ということ。そうでしょう。
例えばなら、口で、もうこの世だけの親子と言うたところでです、言うたところで切れるもんじゃないて親子の縁というものは。
地ほど汚いものはない。というようなことを言う。これは変わるもんじゃない。けれども、これが夫婦になるといわば別れりゃ他人なんだ。主従ともなるといよいよ、そこは何を持って交流しておるかというと、交流する度合いというものが段々気迫に、薄くなって行く。
だからそこんところを、いわば何と言うですかね、報恩の真を尽くすための一つの、まぁ方便ですかね。としての、まぁ表現であると私は思うんです。そうでしょうもん、親子が一世で切れるはずがない。親子は一世と言うておっても、実際は二世も、三世もじゃない、永劫切れるもんじゃないと。
ね、ところがそれが夫婦であったり、ね、それが主従という関係になって来るとです、今時こういう事を言ったって始まらない。そういうような考え方は流行らんわけですね。
昔は律儀な人があって、確かにね、自分の主人のために、自分の可愛い嫁と別れたり。ね、自分の主人筋の人に義理を立てて、自分の可愛い子供を犠牲にしたり。そういうようなことがやはりあのお芝居なんかでよく表れますよね。
やはりそういう一つの思想の中に(ざっとした人達は?)そうなの。ところがその私共と神様という間柄というもの、これはどういうことになったら良いかと。これはもうおかげを受けるためにも、そこ分からにゃいけん。
そこを神様はこういう風に言うてござる。ね、43節の御理解にあられているように、死んだからというて、私のお世話にならんわけにはいかんのじゃとこう。だから、死に際にもお願いをせよと。
けれども、これはならこれを聞く方の側。ね、それを頂く方の側。そげなことなか、もうあの世でまでお世話にならんでん、この世だけで・・・。けれどもね、多くの金光様の信奉者の中には、その程度の人が非常に多いということですよ。
家はもう家代々の、先祖から仏教だから。死んだ時にはお坊さん。死んだら仏様になる。この世でご利益を頂くことだけは、お伺いをしたりお願いをしたりする事だけは金光様。いわばこの程度の信者、信奉者がどのくらい多いか分からんのです。
それは死んだからというて、神様がここに言うておられるように、死んだからというて神の世話にならんわけには行くまいが、ということが分かっていないからなの。皆さん本当のおかげを頂くためにでもここを一つ分かっとかなければですね、本当のおかげを頂けれる願いの焦点が狂うて来るんですよ。
いわゆる、死に際にもお願いをせよというようなところになってこないの。44節に、「狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ」と。
私共の信心というのが、わが心が神に向こうて行くのを信心というのじゃ、と仰るように、神とは勿論ここでいう神は、わが心の神。ね、わが心の神が何時も喜びに満ち溢れておるという、喜びを神という。生神とはここに神が生まれるということであってと仰るように、自分の心の底から有り難いなぁと、思わせて頂く時に、もう我ながら我とわが心が拝めれる。
そういう言わばその境地が、一時ではなくて、段々一日の中にそういう有り難い境地を沢山開かせて頂くということを楽しみに信心させてもらえということである。なるほどこの調子で行けば、神に祭られるぞと。ね、この調子で行けば神様として祭られ、神になることが出来るぞという願いを持っての信心。
それは狐狸ですら、神に祭られるということを喜ぶというではないかと。まして人間は万物の霊長であるから、ね、死したる後神に祭られ、神になる事を楽しみに信心せよと。こういうところに楽しみを置かせてもらう信心。
いや、もうこのことば一つお願いしてからおかげ頂きゃもうそれでよかと。ただおかげが楽しみというだけではなくて、自分の心が高度なものになって行く時。いうなら、魂が限りなく清められて行くということ。その事が楽しみの信心でなからなきゃならんです。ね、そうなってこないと、私はここの43節に現れておる、いわゆる死に際にもお願いをせよというような境地は生まれてこない。
夫婦のものならね、一生変わらぬ夫婦の愛を誓うと。小倉の初代桂松平先生は、皆さんもご承知のような広大なおかげを受けられて。二代金光様、四神様のもとにお礼参拝なさった時に、金光様にその事をお誓いなさっておられます。
この神様の大恩をです、昔、佐倉宗吾郎という人は、生き替わり死に替わりこの恨みを晴らさずにはおかんというて死んだそうでございますが、この桂松平は、それこそ生き替わり死に替わり、この有り難いお道のために尽くしますということ。いわゆる(ひししょうほうきょう?)のですね思いを、真を悲劇されてお取り次ぎを願われたということです。
ね、そういう意味で私共はです、もう桂先生の生まれ替わりと一人ひとりが思わにゃいかんです、九州の道の者は。桂先生が九州の道に初めて金光様をお供して、いわば布教に当たられた。そして、小倉には生神様が出来なさったというほどの高徳を受けられ、ごひれいを輝かされた。この有り難いお道を、世界万国にも輝かさん。
例え、桂松平がこの世に、いわば亡くなりましても、それこそ生き替わり死に替わりこの有り難いお道を広めねばやまんという、いわゆる(ひちしょうほうきょう?)の願いというものを立てられた。
その教えを組、その教えの流れを頂いておる私共はです、一人ひとりがです、そういう神様のいや、桂先生のですかね、ご精神をたいして信心をさせてもらわにゃいけん。いうなら、私は桂先生の生まれ替わりだと(じぐ?)出来るような私はおかげを願わにゃいかんと思う。
そして、道の上に働きを残そうという願い。いよいよ神様のごひれいを現させて頂こうとする願い。
こういう風に段々信心を頂いて参りますとです、願う事その事の筋が変わってくる。神様どうぞおかげを頂かせて下さいち。ね、おかげを頂きましたあかつきには、ご祈願、ご祈念が成就いたしましたあかつきには、それこそ金の(とうろう?)もお供えするようなことを言う。
どうぞ助けて下さいと。ここんところを助けて頂きましたら、こういうような御用にも立ちましょう、こういうようなお供えでもさせてもらいましょうと。おかげを受けたらそうである。そして、実際おかげを受けるとどういうことになるですか。ね、金の(とうろう?)が針一本になってしまうような結果になってしまう。
そういう例は非常に多いです。ね、勿論神様が、あれが百万円お供えしようちいよるけん、そんならあれに一つおかげをやろうと、思うておかげを下さったら、はずはないのだけれどもです。おかげを頂いたならば、こうもします、あぁもしますといったような願いは、金光様のご信心では始らない。
ただその時におかげを見せて下さるのはです、いわゆる神の権威にかけておかげを下さっただけのこと。でないと神様が無力の者のように氏子が思うから。それでは親と子との関わり合いというものがここに初めて出来たのにも関わらずその、関わり合いが、関わり合いとしてのことに育っていかない。
そこには、神も助からず、氏子も助からんという結果になるから。神様も助かりたい、氏子も助かって欲しい。そういう願いが、あのご利益という形になって、またある場合は奇跡的なおかげになって表れて来るのですけれども。その奇跡的なその、というかそういうおかげがね、おかげだけでつながるのではなくてです、こういうおかげをもろうたら、こういたしますといったような条件付きのものではなくてです、いわゆる無条件な信心が、無条件のもの。
私が北京から引き揚げて帰ってまいりまして、その当初の頃。今まで何十年間という信心がいよいよ間違っておった事に気が付いた。おかげを受けてきた、いわゆるご利益は受けてきた。しかもそれは不思議なおかげを受けて来た。ない生命も助けて頂いた。どうにも出来ない壁にぶつかった時に、そこを開いて頂いたのも神様のおかげであった。
けれどもいよいよ家族中の者が裸で、外地から引き揚げて帰ってきてから分かったことはです、そういう信心では駄目だということであった。そのためにはです、私がおかげを頂くというのではなくてですね、神様に喜んで頂くような信心というかさ。神様に喜んで頂くような信心をさせて頂こうと。
そうすりゃ神様が又、私共が喜ぶ、喜ばせて下さるようなおかげは下さるんだとこう思うた。そこで私、親先生にお取り次を願った。三井教会、善導寺のい三井教会。どうぞ親先生私を(して?)どうぞ三井教会一番の忠義者におとりたて下さいという願いであった。
三井教会一番の忠義者におとりたて下さい。昔の、例えば侍の人が殿様に、自分の主人筋の方にですね、いわば忠誠を誓ったわけなんです。どうぞ、この教会での一番の忠義者におとりたて下さい。
そういう願いをですね、させて頂いて、こういう願いを持っておるから、させて頂いておるのであるから、さぁ普通ではいけないというところから、様々な修行が始った。ところがこの願いは神様がね、聞いては下さらなかったようですね。
まぁ神様がね、まぁ健気な事を言う氏子じゃとまぁ思いなさったかもしれません。親先生もそりゃ喜んで御取り次ぎして下さったに違いはない。けれどもですね、ただ親先生を喜ばせなさるようなおかげになってこなかったということ。私自身にもこれほどの切実さを持ってね、例えていうなら大祭なら大祭という時に、さぁ本当に大祭月なのにもう骨が折れる。たったこのくらいのお供えぐらいもう私一人でお供えさせて頂きたいと思う。
このくらいな御用はもう私一人で御用をうけたまわりたいと思う。それには、私がこの教会の一番の忠義者におとりたて頂きたいという願いを持って、そういうおかげを頂こうと願ったわけなんです。
まぁ考えてみると、まぁちょっとまぁ健気な願いであり、心をまぁ神様は受けては下さっただろうけれども、ならおかげは下さらなかった。段々信心が、まぁいうなら佳境に入って行った。
そして私の心の中に段々感じられる事。これは、親教会、自分の教会、教会だけでの忠義者じゃつまらんと私が思うようになってきた。これは道のために働こう。道のためにお役に立たせて、いわゆる道の上での忠義者におとりたて頂こうというような心におかげを頂かんなりに、心が進展してきたわけですね。
しかし思うただけで有り難いですね、こういうことは。皆さんも思うてごらんなさい、自分有り難うなるです。ありゃ神様が喜びなさることを、喜びがですね、こちらへ通うてくるんですよね。
どうぞ合楽教会の一番の忠義者におとりたて下さいと。本気で願うてごらんなさい。皆さんの心の中に喜びが通うてくるです。その願いはまた大きくなった。道のために。ね、道のために私はお役に立つようなおかげを頂きたいというて、願った。
ところが神様はおかげ下さらない。いわゆる、(いろいよ?)難儀は続いた。いよいよ、いよいよ困る事になってきた。商売の上に一時は大変なごひれいを頂いたんだけれども、その商売ですらが、もう出来なくなってしもうた。これだけの願いを持っておるのに神様はどうしてじゃろうかとこう、言うわけなんです。
これの、まぁ何時も私は例で話しますようにね。善導寺の教会の記念祭の時に、あの当時、そうですね、終戦直後はね、あの記念祭が一万円ぐらいで出来たんです。嘘のような話。
それから十年後は、ここからだけでも五十万からおかげを頂いた。記念祭に。そげん、お金の価値が変わってきた。一年前に記念祭がつかえられるのに、信者全部集まってから色々と話合いをしたけれども、そんなら私が金千円でも出そうという者が一人もなかった。
それを、いわば真っ先で聞いておった私はもうそれが歯がゆうしてたまらんじゃった。もうよし、一万円、一万円ぐらいちいうちゃ、そりゃ大金ですけれども、どうでもね、一年間あるのだから、私がおかげ頂こうとこう思うた。
そして、私の上に神様おかげを下さいという願いを立てて一生懸命修行させてもらった。商売もその事のために色んなら商売をさせてもろうた。おかげが頂くようであって、頂かなかった。偉い大変によく売行きがあるかと思うと、それがみんな引っかかりになって帰って来た。
12月のご大祭だというのに、11月になったっちゃ、まだそれが何にも出来ん、十分の一も出来とらじゃた。そこで私は、まぁある一つの神様へ対する、その(れいしゅすたんす?)とでも言うでしょうかね。ね、そして何時も話をしを申しますように、この耳納山の中腹にあります滝場にいって。その滝場で、もう本当に神様のご神意を知りたいと私が思うた。
私はこがしこ一生懸命思いよると。ね、例えでいうならば、この教会でも一番の忠義者におとりたて頂きたい。そのために今度の一年後には、控えられておるところの記念祭には、私をこういう御用に使うて下さいとお願いをしておるのに、どういうわけ神様おかげを下さらんのですかというわけなんだ。
ね、一日、二日。二日目であった。お滝を頂きながら大祓いを一生懸命奏上させてもらう。それこそのどから血が出るように、あの大祓い上げさせてもらう。二日目の朝方お夢を頂いた。●そのお夢はね、私が1軒真四角ぐらいあるような黒い井戸がそこにある。その井戸をこうやってのぞくとその、井戸の中にね、その井戸いっぱいに、こう泳いでおるゆっくり、ゆっくりそのもう見事な真鯉がですね、泳いでおるのですよ。
ほれで私がその井戸の上からそれを眺めさせて頂きながらね、いやこれは素晴らしい鯉だと。今度の記念祭のお供えはこれだと私が心の中に思いよる。そして私がですね、その井戸側の上に立ってから、中に小便をしよるところを頂いたんです。
もうちょっとお話にならない。はー今度の祈念祭にはこれだ。これをお供えさせてもらおうと言いながら、私がその井戸の口に立って小便しよる。そして小便してしもうてから、思いよる。しもたー、これじゃお供えが出来んと思い、それで目が覚めた。
そして、私の心の中に、まぁ分からせられたことなんです。いかにけなげな願いであり、それがね、有り難い願いのようであってもです、私の願いの内容が間違うておった。ね、それは無条件のものじゃなからなければならんのにです、私の心の中にはです、神様一番の忠義者におとりたて下さいと願う。
記念祭は私は一人でもおかげ頂くというように、願う。その事はよかったけれども、ね、それが済んだらその後には、今度は私に、私が一番の忠義者ですから、私にはがばっと一つまた禄を増やして下さいというわけでしょうかね。
その代わりに、その後のおかげを私に一人じめで頂けれるようなおかげを頂かせて下さいというようなものがあったことなんです。それが不浄になっておった。それが小便になっておった。と(私?)気付かせて頂いてからです、もう本当に愕然とするほどにビックリしました。
ね、そして、いわゆるさぁ記念祭が終わってから、その後のことはもう私が、ね、おかげのことは、もう無条件でそのことに。11ヶ月、10ヶ月の間に出来なかったのが一ヶ月あまりでですね、もうばたばた出来たですよ。
それはもう本当にもう驚くばかりでしたよ。そこでここで分からせられる事なんです。お互いの願いというものがです、お互いの願いというものは例えばそういうような健気なものでもない。おかげ頂いとんならば、今度の記念祭で自分が一人でもおかげ頂こうといったようなものでもなくても、ただいうならば、自分の我情我欲を願っても、神様はおかげ下さってあるんですけれども、願いの焦点というものがです、段々替えられて本当なことになってくると。
結局私は思わせて頂くのにですね、この神様への一番の喜び頂けれるのはね、いわゆ御理解43節の、死に際にもお願いが出来るほどの信心。44節に現れておるところのです、死したる後神に祭られ、神になる事を楽しみに信心せよ。と仰る、いよいよ魂の清まりを願っての信心。
魂の清まっていくことが有り難いの信心。そこにはおかげの条件というものがない。
そういう信心がですね、私は出来るようになって、初めてこの43節は分かるのじゃなかろうかとこう。ね、死んだからというて神のお世話にならんわけにはいくまいが。死に際にもお願いをせよというような信心。
私共がですね、あの世この世を通して神様へ真の限りを尽くさせてもらう。この世あの世を通して、いわゆる真を誓う。その真を誓うということはです、いよいよ私が清まらせて頂きたい。私が限りなく美しゅうならせて頂きたい。いよいよわが心が神に向こうて行くことを楽しみに、死したる後神に祭られ、神になる事を楽しみの信心にならせて頂くということがですね、神様の一番のお喜びであるということ。
一番の喜びが頂けて、そこから生まれて来るところの、まぁいうならば無尽蔵ね、いわゆる限りのないおかげ。ここにある時にはです、そこに牙ってですね、こういうようなおかげも頂きたい。こういうようなお供えもしたいといったようなものではなくてです、もう一切のことが無条件でなされてくるようなお繰り合わせにもなってくるだろう。
いわゆる若い時に願っておった教会一番の忠義者におとりたて下さいということも、もう願わんなりに、その忠義者としてのおとりたてを下さるだろう。
いよいよ8月の16日は祈願祭。夏のご大祭。夏のご大祭の内容というのは、今申しました桂先生がね、ご本部へご造営を思い立たれた。そのためにはどうしてもおかげを頂かなきゃならんです。
空を飛ぶ鳥でも、翼なしには飛ばれない。いかにどんなに思うても、ここにお金ならお金というものがなからなければ、ご造営は出来ません。そのためにはどうぞ、九州一員にです、諸事繁盛を祈願された。農作物の大宝上を願われた。様々な産業がいよいよ発展する事を願われた。商売が繁盛する事を一生懸命願われた。
それも、何時までとは願いません、向こう何年間、人間を切ってから願われた。そこにその、一大御祈念会が初められた。それが夏の祈願祭の始まりです。
ですから私は8月のご大祭はですね、いわゆる本当の祈願祭なんです。もう汗ぶるぶるになって、願うお祭りなのです。しかもそれは諸事繁盛なの。ね、もう諸事繁盛の願いなの。
まぁ一月ある。だから一月前にです、そういう願いを立てて修行しにゃいかん。その時だけ願うたっちゃつまらん。大祭の祈願、あの(月?)はもう本当に、もうひんからまんからおかげ頂かせてもらうための願いを立てようと。ね、いわゆる諸事繁盛の祈願をですね、させて頂こうという前に今から修行しとく。祈りこんでおる。
けれども、例えば今日の御理解を頂き(よったです?)ただ自分の商売が繁盛いたしますようにと、いわゆる諸事繁盛ということだけが願いではなくてです、神様に喜んで頂くことのために繁盛するという願いでなからにゃいけないということなの。
今日の御理解を頂いておると、本当はそこも、まだまぁいっちょ向こうのところでしたですね。繁盛、そういうことはもう思わない、ただ自分の魂が清まっていくということ。だから、多少でも、その魂が清まっていく事の修行。その清まった心で諸事繁盛を願う。しかもその諸事繁盛は私だけのための諸事繁盛じゃない。それで私の繁盛がそのまま、世界の繁盛につながる。神様の御喜びにつながるための繁盛でなからなければならない。
どうぞもう私の借金払いが出来ますようにお願いいたしますというだけの願いだけじゃいけない。いっちょ、うんと儲かってから立派な家でも建てようといったような願いじゃつまらん。どうぞ、こういうおかげを頂いたら、こういうお供えをいたしますといったような、そげな条件付きじゃ神様はおかげ下さらんて、この神様は。
それに例えば、ね私のその祈念祭の時の例話ではないけれども、そういう一生懸命の思いで一年間頑張ったっちゃおかげ頂かんじゃった。それを、条件をなくした時におかげを受けておる。
ならその時に受けた力というものはどういうことになっておるか。ね、それを分からせて頂いたということはどういうことになっておるか。その後のおかげにつながらんはずがない。願わんでも。
けれどもなら私共に、さぁ願いを止めろなんて言ったってから、実際はね、願わにゃおられんのである。痒けりゃ痒い、痛けりゃ痛いでね、かいてももらいたい、さすってももらいたいのである。
最近責められる。いうなら借金取りに責められる。はようやはり借金も払わせて頂かなきゃおられん。何時何時は(てがた?)でございますから。何時何時は何処何処の支払いがございますから。どうぞ万事お繰り合わせを頂きますようにというお繰り合わせを願わにゃおられん。
だから願わにゃいかん。実感をもって願わにゃいかんけれどもです、その願う内容がね、願う内容が、それによって神を分かり。神様をいよいよ信ずることが出来るようになり、その事を通して本当の信心が分からせて頂きたいという願い。
そういう意味でですね、43節の「死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願いせよ」というような、これはもう大変、いわば大変高度なこれは御理解だと思うですね。
私が今日、今日までこれは、そんなこと知らなかった。けれども、死に際にもお願いをするということは、もうあの世でもあなたのおかげを頂かなければ生きられんから、ということが分からなければ、願われないです。
ね、そういうことが分かるためにはです、ね、もっともっと神様を頂かなきゃいけない。それには、神様に御喜び頂けれる信心がです、ぴったり一緒にならにゃいけん。それには私共がです(しゅうしょう?)変わらんじゃない。ね、生涯変わらんじゃない。ね、あの世この世をかけて神様への(きゅうせい?)を誓わせてもらうといったような信心。
そういう信心こそ、いよいよ尊いおかげが頂けれる。ね、死に際にもお願いが出来れる信心。ためにはまずね、死したる後神に祭られ、神になる事を楽しみの信心。いよいよ魂の清まりを願っての信心。
そこに魂の清まりというものが、条件になってから頂けておるところのおかげ、そういうおかげを私はお道でいう本当のおかげだとこう思うですね、どうぞ。
梶原 佳行